スポーツ観戦にはまったく興味はないのだけど、開会式がチャン・イーモウ演出だったので選手入場までTVで見た。


 原色満載とワイヤー・アクションの使い方が最近のチャン・イーモウの映画の演出そのまんま。なんかもうひとつ感動にまでは行き当たらないのも一緒かな。いかにも西洋社会からみたオリエンタリズムだったのも同じ。

 いろんなメッセージを込めたとしても全て空虚に思えたのは別に中国が開催地だからというだけではない。

 おもしろいと思ったのは、舞台装置の位置を興奮してずらしてしまったのをあわてて直したり、自分の動きに自信がないのか周りを横目で見ながら緊張して必死にあわせようとしている表情だったり、テンションが上がりすぎたのか全く他とは違った大きな動きをしている人だったりとか個々の人々の表情だった。

 開会式に限らず「式」になれば個人よりなにより集団の意志を重んじるということになるのだろうか。

 大きな式になればなるほど、全体が一緒に動く、全体が一つの意志で行動する、ということで荘厳さと意味を出そうとするのかな。

 開会式のわざとらしい重厚な音楽を聴いてたら、開会式がもしジョナサン・リッチマンみたいにユルユルの音楽でやられるならもっと楽しいだろうな、と思ってしまった。ユルユルでニコニコしたら「式」にはならないんだろうか?

 ジョナサン・リッチマンのいる(ある)開会式っていいと思うけどな。
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。