キャラバンに関しては近藤房之助氏、山本精一氏、得三・森田店長、磔磔・水島店長からコメントをもらっています。
下記がその全文です。
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★近藤房之助氏
独特の音創りをするキャラバンというバンドに出会ったのは1976〜7年の頃だったと思う。それ以前に名前だけは知っていた。ボクと同じ名古屋から全国に発信しようという矢先に解散してしまった突風のようなバンドであった。
創る苦しみを背負ったバンドらしくその命は短かったが、当時の連中がもっていたダイナミズム、そしてハッとするような瑞々しさはボクの心にしっかり残っている。
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★山本精一氏
”ダブ・レゲエ・アフロ・ファンク・パンク・プログレ・ロック・バンド、キャラバンのこと”
キャラバンのことはおいそれと書けない。
私にとっては、生涯を通じてとても大切なバンドのひとつなのである。キャラバンは陳腐な表現だが、文字通り、真に「早すぎた」バンドだった。おそらくは日本で初めて意識的に“ダブ”を演奏したバンドだったはずだ。その音の基調はレゲエだが、随所にまるで飛び道具のようにディレイがカマされる。私が彼らのライヴを見たのは‘79年五月初旬の、大阪は天王寺野外音楽堂、春一番コンサートに於てだった。つまり、ポップ・グループやデヴィッド・カニンガムや、アンディ・パートリッジの“テイク・アウェイ”よりも先に、自分は新しいダブの解釈と実践を、キャラバンによって突きつけられたのである。実際その後、時を置かず聴いたポップ・グループに非常な衝撃を受けたが、同時に即座にキャラバンのある部分を想起したものだった。もちろんポップ・グループや同時期のイギリスのあたらしいバンドが持っていた明確な抽象性や、アーティスティックな志向と、キャラバンの持つ不思議にあっけらかんとしたレイドバックするサウンドなんかは、そこだけ見れば異なるものだろうし、事実、両者は本質的に別種のものに違いない。けれども自分は、当時英米で同時多発的に生まれて出て来ていた先鋭的なニューウェイヴ・バンドへの、日本からの一番のカウンターとして、キャラバンを捉えていた。決してパンクの流れの中から出現したのでなく(ある意味彼らこそがパンクといえたが)、さらに「名古屋から」というところがミソだった。’79年に行われた、彼らの初の関西ツァーのチラシ(今も取ってある)には“名古屋からの大型台風襲来”みたいなタタキが大仰に踊っていたのを思い出す。いやまさにその時のキャラバンの京阪各所に於けるライヴは、掛け値無しに台風の様相を呈していたと言っていい。
今回素晴らしくも、キャラバンの初アルバム(!)としてリリースされる本盤は、その当時の、一番白熱していた時分の彼らのライヴ音源である。これは本当に嬉しい。というより、何で今までキャラバンの音源が陽の目を見なかったのだろう。私などや、芳垣安洋や、矢倉邦晃その他、あの頃、キャラバンを見てショックを受け、その後今に至るも、身体や精神のどこかへ、その奇妙な音像をトラウマの如くかかえ込んでいる者は多い。私が最初に結成したバンドにあっては、キャラバンの“ガンジャ・ソング”は特に貴重なレパートリーだったものだ。ちなみにキャラバンのライヴでの、この曲の迫力は異様なほどで、ヴォーカルの天之助氏がバクチクを炸裂させながら高速で客席を走りまわっていたのを思い出す。天之助氏はその後、私らが名古屋でライヴをやる時に、来て頂いたり、時にはホテルまで自作の絵(素晴らしい!)を持参して見せて下さったりした。その天之助氏も今は亡き人となっている。時間は流れた。
キャラバンって一体全体何だったんだろう。その短い活動期の間に、突風の様に吹き抜け、カマイタチの如くそこいら中を切り割いて去った、あたかもひとつの大きな現象のようなバンドがかって存在したのである。本盤によって遂に、彼らの偉業の一端が世に知られるようになる事は、近頃めずらしい、真の好事である。
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★森田裕氏/バレーボールズ・TOKUZO
キャラバンというバンドが活動していたのは、今となってはずいぶん短い期間だったように思われる。しかし、色んな人たちの記憶の中で、キャラバンはずっと色褪せることなく反芻されてきたに違いない。たぶん、この音源は当時のカセットテープに録音されたものであろうが、くぐもったベールの向こうに、記憶の中のキャラバンは、揺らぐことなくいる。それが、こうしてCDとなって、本当によかったと思う。
この当時、キャラバンのメンバーも僕も、20代の前半だった。ここで聴ける、何かに突き動かされているかのような、重く尖った音の塊は、どこまでも力強く、確信に満ち、そして無防備だ。信じて疑わないモノを共有するのがバンドというものならば、キャラバンは、まごうかたなき「バンド」であった。今では、あまりお目にかからない「夢」のある音楽だと言っていいのかもしれない。
実は、この頃信じていたモノを、今でも僕は密かに信じている。昨年急死してしまった天之助も、他のキャラバンの連中も、きっとそうに違いない。
キャラバンのCDが出て、本当によかったと思う。
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★水島博範氏/磔磔
「キャラバン」を見たのは一回きりなんです。1979年 5月9日、磔磔。
それでも、天之助のちょっとくせのあるのどの奥から絞るようなボーカル、
山岡の鋭利な左利きギター、バンドの重たいリズム、はよく覚えています。
曲は「帰ろう」が今も頭の中に残っています。
山岡は一時期「近藤房之助&ONE ARM」も参加していた、名古屋の重鎮。
今は亡き、一ノ谷天の助は名古屋でバレーボールズのボーカルとして今池の人気者でした。
若い世代には「キャラバン」と云ってもぴんと来ない人がほとんどだろう。
70年代、まだ音楽が新鮮だった頃のバンドの演奏を今日のバンドマンは聴くべきだ。
F.M.N.の石橋君には貴重なCD有難う。