PROJECT FUKUSHIMA!

 ちょっとまじめな話。

3.11以降、自分のやることが変わってしまうのか変わらざるを得ないのか、考えたくなくても考えてしまう。

Ustで見た夜想語りでのペヨトル工房今野さんの「変わらざるを得なかった」と吉田アミちゃんの「変わりようがない、それほど柔な表現はやっていない」という二つの両極端に思える言葉は、おそらくどちらも自分の中にある。

変わりようがないと思うが、しかしどこかで変わらざるを得ない部分をそこに感じつつ、それでもいつも通りやっている。

大友さんやミチロウさん達がやろうとしている、いや今やってる、PRJECT FUKUSHIMA! 、宣言文を読んで確かに共感するところはある。

しかし正直に言えばよく分からないところもまだ多々ある。多分、そのよく分からないところは自分の何かしらの行動(今まで通りの活動も含め)で解決しないといけないのだろう。

西部講堂のようなところに長らくいたためか「祭り」と言う言葉にアレルギーにも似た拒絶反応が出てしまう。

「祭り」の名の下に、文化(ああ、文化という言葉はいやだ、なるべく使いたくないが他に適当な言葉が思い浮かばない)が一時の享楽のネタに貶められる状況を何度も見てきた。

大友さんもミチロウさんもたぶんそういうことは百も承知のはずだ。それでも「祭り」が必要と思う状況とはどういうものなんだろう?

それも知りたいし、なによりもPROJECT FUKUSHIMA!のよく分からない部分を自分なりに明らかにするためにも8月15日にはその場所に行こうと思っている。予定がうまく合えばだが。

その「よく分からない部分」は「変わらざるを得ない部分」と密接に関係しているはずだ。よくわからないまま変わっていくよりはどう変わらざるを得ないか、自分でもそれなりに分かっていた方が良い。

何かをしないといけないというエクスキューズの気持ちや何かをしているという自己満足のためでもなく、今まで自分のやっていたことの延長で、しかもそれをもっと深くするために8月15日のその場にはなるべく行こうと考えてます。

でも一番興味があることはPROJECT FUKUSHIMA!での「学校」のことなんだけどな。

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