ようやく来週9日に発売される「ひかるゆめ」に新しいコメントをいくつかいただきました。
●大橋裕之さん (漫画家)
2007年の夏、僕はバイトで嫌なことがあって、しんどい日々を過ごしていた。そんな時、音楽をやってる人が同じバイト先にいると聞いた。それが穂高さんだった。話してみると穂高さんもバイトで嫌な思いをしていた。なぜかバイト内で誰も穂高さんの歌を聴いたことがないと言うので、ライブに行ってみることにした。とても素晴らしくて感動した。声も曲も詞も良かった。少し勇気が湧いた。でも僕はその後すぐバイトを辞めた。穂高さんは随分長く続けていた。
アルバム完成おめでとう!穂高さんが歌うことを続けていてくれて嬉しいです。
●冷牟田敬さん(paradise)
このアルバムを作るまでの穂高さんの葛藤や迷い、長い長い自分との闘い、その一部分だけとは言え知っていて、共に道を歩みもした友人の一人としては、このアルバムの存在が本当に奇跡的な事だと思います。
ここにあるのは心の奥深くまで流れていく、厳しい優しさを持った歌(自分の心の底なんて見たくないという人は聴かない方が良いです。でもそういう人はそもそも音楽なんて聴かなくていいとも思います。)。僕の母方の実家の長崎の、心と体がまるごと包み込まれるような海を思い出します。(穂高さんが九州出身と知った時、何故この人から長崎のあの熱を感じるのか分かって少し感動しました。)
幼なじみの友達がかつて遠い昔に聴かせてくれた歌が時空を越えてやってきたような気がしてしまう。
ライブでの穂高さんには時にどこか通り魔のような危うさがあって、そこにも僕は強く惹かれていたのですが、このアルバムからはそういう闘いをずっと経てきたからこそ辿り着いた安らかさのような物を感じました。
でも生きている限り、自分や世界との闘いも、また許しも続いていく物だと思います。このアルバムは、ひとりになる事、そこから初めて世界を見つめる事、という一番大切な事を思い出させてくれます。
●川染喜弘さん
穂高さんの作品は、魂の力を僕はとても感じる。
穂高さんの音楽は、壮大な宇宙の歴史の中のほんの一瞬の時間、広大な宇宙の中の一つの場所で、小さな魂が命をメラメラと燃えることを感じさせてくれる、本当に自分が聴きたい音楽だ。
それでいて、こんなに静かで安らぐ優しい音楽は思いつかない。
CDとして形になって何度でもずっと聴けるのは不思議だし、どんなに幸せなことか分からない。
この作品にどれだけの思いが込められているか本当に、伝わってくる。
夜になると、空に星の光が輝いていることが分かることのような希望に満ちたとても優しいもの、そんなことを感じる。
その光はとても目映く照らしてくれる。
そして真っ直ぐで澄んでいて、その光はこれからもっともっと輝きを増していく、僕にとっても希望の光、そんなことも感じる。
穂高さんの発する光でなければ照らせない場所がある。
僕にとってはその場所がすごく自分が必要としているものである。
本当に、救ってもらっている。
心から感謝している。
そして、本当に、大切に誠実に、心を込めて鳴らされる音楽。
穂高さんからは演奏だけでなく、人との関わり合いや活動の全てそのような心持ちを感じていて、本当に尊敬していてとても見習いたく思っているのだけど、演奏にもとても現れていると感じる。
良い作品は良い心から生まれる、自分にとってそれを本当に、感じさせてもらえる。
忘れてはいけないそのことを、はっと気づかせてくれる。それは日々の生活でも同じ、生きる上でどんなに重要なことだろう。
あるとき大事なことを見うしないそうになったときにもききたいな。
心から感謝している。
そして、聴くごとに色々と感じることがあらわれるから、コメントがこれでおしまいではないし、まだまだ書き足りないし、書きたいことはずっと続くだろう。また書かせて、なんて思ったりしそうだ。
そう考えると、いつ文章を終えて良いか分からなくなる。
けれど無理に言葉にしなくても良いとも思った。
本当はまだまだ書きたいことがあるのだけれど、きいて頂ける方が、自由に感じてもらえたらと思うし、僕の言葉で変にイメージがついてもいやだなあと思っていて、なので、こういう感じ方もあるんだ、くらいに思ってもらえたらと思う。それもあり、少なめの言葉にさせてもらった。
僕のコメントがなくてもきいてもらえれば何か感じてもらえる、それくらいの作品だと思っているから。
・・・・・うーん、やはりうまく言えない、というか、言葉に出来ないというかんじもものすごくある。
ただ感じよう。
本当に尊い、一人の人間の命のような作品だと思った。
●大口弦人さん(愛のために死す)
穂高さんに初めて会った日のことをよく憶えている。
その日僕は穂高さんともう一人の女性によるいろりという名のバンドのライヴを目の前で観た。
確かライヴの最初に穂高さんが顔をうつむけきって長い黒髪を垂らしながら、ギターで、ゴッ…、ゴッ….、という不規則なノイズを出し、それに合わせてもう一人の女性が麻袋かなにかから緑色の林檎を一気にばーっと床に転がせることからそのライヴははじまったような気がする。
穂高さんが出していたゴッ、ゴッ、というノイズはおそらく緑の林檎が床に転がり散らばる様子を表現していたんだと思う。
今はおそらくそのころとではライヴに対する姿勢も違うんじゃないかと思うが
、そのとき穂高さんは客席に向かって自分の歌を聴いてくれる感謝でも、歌を聴いてほしいという願いでもなく、むしろ自分の歌を最後まで引き受けられる客などいるのかというように挑戦的な、まるで追いつめられた獣が祈りとも呪いともつかないまなざしで睨みつけるように、全身を震わせながら戦うように歌を歌い、ギターを弾いていたような気がする。
そのときの穂高さんの歌は素手で自分の胸の肉を抉りこみ、血の滴るまだ脈打つ心臓を掌でつかみ取り、それを眼前に突きつけるような歌だった。
『ひかるゆめ』を聴いて僕は、穂高さんと知り合わなければよかった、と一瞬だけ本気で思った。
だけどそれは穂高さんを 個人的に知っている者にとってはそこまで感動しえない歌だという話じゃまったくない。
そうじゃなくて歌がただの一曲の歌として、例えばどこか居心地の良い喫茶店やラジオから流れてきたものをまったくの他人として聴いたとしても、それだけそのままのかたちで本当に豊かですばらしいものだから、僕が穂高さんのことを知らなければより一層この歌が、出会ったことのない誰よりも大切な人からの手紙のように感じられただろうということだ。
それは穂高さんの歌がそれだけなんの前提も必要とせずに、聴く者の心を震わすものだということだろう。
だからこれを読んでいる穂高さんの歌に感動した、穂高さんを個人的には知らないという人は穂高さんと個人的に知り合わない方が良いかもしれない。
歌うということは、心のすべてを見せることだ。
それは家族や友達や恋人はおろか歌っている本人にさえも分からないものさえも、どこにいる誰だか分からない、だけどどこかに確かにいる聴き手に向かって曝け出すということだ。
だから人と人との関わりにおいて歌を誰かにその相手に歌い、その歌を相手が受けとめるというそれ以上の関わりというものは本当は存在しないのだ。
最後に『ひかるゆめ』を聴いて、すこし驚いたことがひとつあるからそれを書いて終わりにしよう。
それは『緑』という曲が収録されていたことだ。
そのことのなにに驚いたかというと、僕は穂高さんのこの曲の存在をこうして『ひかるゆめ』で聴くまですっかり忘れていたのだけど、『ひかるゆめ』での『緑』を聴いたときに、穂高さんと出会ったばかりのころによくこの曲を穂高さんがライヴでノイズまみれのギターを掻きむしり、そのうしろにたどたどしくフリーキーなバンド演奏が続くなか、穂高さんがぶっきらぼうに、「血液は緑色」、と吐き棄てるように歌っていたことを瞬時に思い出し、そしてこの『ひかるゆめ』に収録された『緑』はあのころとは随分と変わったことに僕は驚いたのだ。
穂高さんが細長い指で胸の肉を抉り、僕の前に突き出した脈打つ血まみれの真っ赤な心臓は僕が知らないあいだに、あのときのライヴで穂高さんが転がる音を表現していた緑色の林檎に変わっていったのではないだろうか。
だけどあのころの祈りと呪いが交じった睨みつけるようなまなざしはきっと穂高さんの心の奥底では変わることなく、今でも続いているだろう。
何故なら歌が生まれるところは祈りと呪い以外のなにものでもないから。
だけど穂高さんの聴き手に向けたまなざしは今はもっと暖かなものになっていってるんじゃないだろうか。それは丸くなったとか、媚びるようになったとかいうようなそんなつまらないことじゃない。
きっとあのころよりも穂高さんのなかで自分が何故歌を歌うのかということや、自分が歌を歌うということそのものがもっとはっきりと確かなものになったということなんだろう。
だから、まなざしの真摯さはなにも変わっていない。
いや、もっと純度が高まっているんだ。
脈打つ血まみれの真っ赤な心臓は受け取る人を選ぶだろうが、差し出された緑の林檎を嬉しく思わない者はいないだろう。
そして僕は今僕の目の前に差し出された、その緑の林檎を自分の掌に受け取れたのだろうか。
二千十一年九月一日

