


先週の鈴木祥子さんのライヴでのリッキー・リー・ジョーンズのきれいなカバー(The Horses)を聴いて思いだした。
アルバムは違うけどリッキー・リー・ジョーンズのファーストが日本で出たときのタイトルが「浪漫」。帯のコピーが「永遠の家出少女」。
ノーマン・シーフの有名なジャケ写に惹かれながらも帯のコピーに「う〜ん」と納得行かずに買わなかった。
同じようなことはストゥージーズのロウ・パワーでも。
日本盤のタイトルが「淫力魔人」。
このタイトルがでかでかと帯に書いてあってその上あのジャケットでは、丸刈りの少年にレジまで持っていく勇気はでなかった。エロ本と同じくらい恥ずかしい。
どちらも買って聴けたのは大分後だけど、その当時に手にとって迷った時のジャケットの匂いがまだ強く記憶に残っている。
レコード盤の時にはジャケットそれぞれに特有の匂いがあった。多分印刷の具合だと思うけど、それぞれのレコードに固有の匂いがあった。
上記の2枚には強く惹かれたのに買わなかった、とても聴きたかったのに買えなかった、その時の記憶とその匂いが強く結びついている。
なんでそういうことを今更書くかというと、今のipodで聴くようなデータ中心の音楽との関わり方にはそういう余計な記憶と結びつくような隙間がないな、と思ったからだ。
余計といったけどそういう隙間というか余裕がないと他者と関係することはないのではないかな?
そうでないと聞き捨ててしまうか極々個人の中で終結してしまうか。
ジャケットの匂いも極々私的な記憶だけど、データで聴く時の極私的な記憶とは違うような気がする。それがどう違うかというとよく分からないが。
ここ数日今まで録音した大友良英+山本精一のラフ・ミックスを聴いていろいろ考えていた。
例えば60点の曲と80点の曲を2曲入れたアルバムを作っても平均点70点のアルバムにはならない。全体の印象としては45点くらいになる。
だから60点の曲は無しにして90点100点の曲だけでアルバムを1枚作る方が、60点や70点の曲を入れたアルバムを2枚作るよりはいいかな、とか思っていた。(点数をつけたのはあくまで話しの便宜上です。念のため。)
しかしこういう考え方はデータで聞くような今ではとても時代遅れの考え方なのだろうな、とも思ってる。
でもやっぱりアルバムとして1枚で考えて作りたいな。時代遅れだとはしても。
ベベウ・ジルベルトの新譜「momento」は最近の聴き手を多分意識したもの。1曲1曲出来は良いのにアルバムとして全部を聴くとどうにも印象がぼやけてくる。
多分アルバムとして聴かれることは最初から考えてはいないのだろう。ipodで好きな曲だけ聴いてもらえればいいのかもしれない。
でもやっぱりそういうのになじめないなー。


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ベベウ・ジルベルト、自分もそう感じました。ラジオで聞いて、!、と思ってタワレコで試聴したら、?、て感じ。
アルバム買うまでもないかなー。
どうも、こんにちは。
なんかそういう感じのCDが多いですよね。
1枚通して聴くのに努力がいる。