松本雄吉さんのこと

維新派、松本さんの訃報。
ついこの間、具合が悪いという話を聞いたばかりだった。
ショックです。
松本さんのやってきたことの重みやすごさは他の人がいろんなところで書くでしょう。
ここでは極々個人的な想い出を。

維新派(その時は日本維新派)を初めて見たのは大学の時。76~7年くらいかな。すでに日本維新派のものすごい噂は聞いてたので磔磔での公演を見に行った。

磔磔のステージに作られた泥水が満たされたプール内に全裸の男女が4〜5人、ひたすら中の泥をぶつけ合う、というものでもちろん客席にも泥は飛んでくる。
もう泥で汚れるし何が面白いかもわからないし、見終わっても「?」だらけだったけどなんかとんでもないのを見たな、という気持ちだけは残った。

その後、大阪での特設野外巨大劇場での公演も数回見に行った。今の維新派と違いアングラ臭の強い時ですね。
その幾つかで今でも覚えていること。
入り口を入ると迷路のように入り組んだ通路を通り二階に上がると客席。一階はその迷路のような通路のためだけに作られてた。舞台ももちろん二階に設営されてた。
芝居の内容は覚えていない。
ただ最後、パンツ一丁で金粉を塗った数十人の出演者全員が出てきて、一升瓶で水を一気飲みしい、またそれをすぐ吐くというラスト。

これも何が面白いのか全くわからない。しかし大阪の夜景が見える空中に浮かんだような巨大劇場で金粉にまみれた数十人の男たちが水を飲み吐く、という光景は未だに忘れられない。

後で楽日には劇場を解体しながら演っていたと聞いて、楽日に行かなかったのをとても後悔した。
何が面白いか分からないのにそう思ったのが自分でも不思議だった。

自分はまあいろいろあって82年頃から西部講堂に住みだすわけで、88年に住むのをやめたのは維新派の公演がきっかけだった。

松本さんは公演時は数か月準備期間を置く。そのために劇団員、スタッフ共々その場で暮らす、そのための場所を確保するために出たのだ。

とはいえ、制作等を手伝ってはいたので結局公演が終わるまで住んでいたも同然だった。
その時の音楽は山本公正さんが担当。のちの維新派を支えることになった内橋くんはその時は公正さんのバンドのメンバーの一人だった。

内橋くんとはそれまでもライヴで顔見知りだったけど、多分その時に初めてちゃんと話したんじゃなかったかな?

出演者の一人に町田康くんもいて、町田くんとも久しぶりだったのでなかなか楽しい数ヶ月だったと思う。

しかし西部講堂嫌いの町田くん(インロウタキンの歌詞参照)がよく来たなと思うが、それだけ松本さんの魅力に惹きつけられたのだと思う。

傍目に見てても町田くんと松本さんは親子のようだった。

西部講堂公演では、ある忘れられないことがある。

松本さんは最初、西部講堂を大改造するつもりだった。
作られた図面を見ると舞台を上下(カミシモ)に5m以上拡張、奈落も回転舞台も作り照明用のバトンも常設するというものだった。もちろん屋根も改造予定に入っていた。

それを見せられた時は度肝を抜かれたが、その時の西部講堂には使用するものが使いやすいように改修してもいい、という暗黙のルールがあった(センターステージとかそうですね。)のでどうぞお好きに、ということにはなったけど改修なんて生易しいものじゃない、ほとんど最初から劇場を作るようなものだった。

とにかく松本さんのスケールが大きすぎてついていけなかった。というよりはこっちのスケールが小さすぎたのだが。

とにかく工事に着手しようと、まず最初に窓がふさがれてた楽屋の窓を作った。その途端学生部が飛んできて「内部の改修は(ある程度は)良い、でも外は一切手を触れてくれるな、文部省が黙っていない」と言ってきた。

その時の京大学生部は、西部講堂の存在意義もちゃんと認めてくれて何かと便宜を図ってくれていたのでそう言われると無視できない。

しょうがなく松本さんに工事を中止せざるを得ないことを言うと、もう大激怒で「そんなことやから西部講堂は中途半端なことしかできへんのや」。
ひたすら謝る続けるしかなかった。

結局改造は諦め、しかし10mの回転舞台を設置し公演は行われた。

純ちゃんとはその後も付き合いが続き、カシバー来日の京都公演時にはかなり無理なことも頼んだ。
それはカシバーのレコードにピンチョンの「重力の虹」の一部が掲載されてたのでパンフ(とは言ってもコピーで作ったものですよ)に掲載するため翻訳を頼んだのだ。
版権無視でひどい話だけど、でもまだ「重力の虹」の翻訳本は出てなかったのだ。今思えばピンチョンの翻訳なんてとんでもないことを頼んだなと思うけどメンバーは喜んでくれた。

話を戻します。

その後も、なんとなく維新派の公演を見に行ったり軽くお手伝いしたりが続くのだけど、その西部講堂の公演の前なのか後なのか記憶が曖昧だけど、覚えてることがある。もうずいぶん昔のことなので細かいところが違うかもしれませんが。もし他に見たことがある方がいたら教えてください。

それは確か滋賀で行われたある公演のこと。障子だけ作られた小さな野外劇場(確かお客さんも3~40人くらいだったと思う)で松本さんが役者として出た時のことだ。
松本さんは一升瓶の焼酎を一気飲み(もちろんできない、確か何度かに分けて飲んだと思う)してすぐ吐いた。そうアングラ時代の維新派の持ち芸みたいなもんだ。でも水じゃない、焼酎なのですぐ吐いてもかなり酔っ払う。
障子を通した夕暮れのおぼろげな光の中で、酔いでままならない自分の体を操って踊る松本さんの姿はとても美しかった。

あれは本当にあったことなのか、そう思うくらいこの世のものではない美しさだった。

90年代の終わり頃からは大阪や他の地方まで観に行く時間がなくなり、維新派の公演どころか松本さんに会うこともなくなった。

内橋くんのやっていたフェステイバル・ビヨンド・イノセンス(FBI)に松本さんが見に来た時にちょっと挨拶する程度だったかな。

一昨年の中之島での「透視図」が久々の維新派だった。松本さんにも会いたかったが、忙しそうだし他に会うべき大切な人たちもいるだろうと思いそのまま帰った。その時にチラッと見た姿が最後だったな。

松本さんの人間としての魅力ややってきたことの偉大さは多分色んな人が書くでしょう。
だからここではそんなことはあまり書かないけどね。
でも風景や遠い記憶で人を表す、肉体と一番遠いところで肉体を使う維新派の公演は好きでした。

しかし、そうかあ、あの目で黙ってニコッと笑うところは好きだったな。もう一度その顔を見たかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。