
赤塚不二夫のまんがNO.1が付録のソノシートをCD化してダイジェストで復刻された。
これを手がけたのはF.M.N.もお世話になっているディストリビューターのブリッジの前代表、金野さん。
ブリッジ時代には春一番ボックスや発売元はoffnoteだけどno newyorkの再発など好企画を連発しておられた。ディスク・ユニオンに活動の場を変えられての第一弾。
CDというより本なんでその装丁のすばらしさも含めて一回手に取ってみて下さい。
それで、赤塚不二夫。
年齢的に物心がついて漫画を読み始めたときにはもう「おそ松くん」は始まっていた。
でもなんとなくぬるいギャグ漫画であまり好きではなかった。当時でもかなりぶっとんだギャグ漫画は沢山あったのだ。
「もーれつア太郎」が少年サンデーで始まったのは小学校の時か。
死んでしまった八百屋のオヤジが残した店を、ア太郎とチビ太ががんばって盛り返していくのを幽霊になったオヤジが見守る、といったこれまたぬるい設定のまんがは、最初はいやだったけどそのうち好きになった。
赤塚不二夫ははちゃめちゃなナンセンスギャグ漫画家だと言われているけど、思えば全て家庭や家族の暖かさへのあこがれみたいなものが底にある。
「おそ松くん」や「もーれつア太郎」、そして「天才バカボン」だってあの家族愛は不思議なくらいだ。
家族や家庭の暖かさの裏にある侘びしさみたいなものもいつもあったように思う。ちょっと知恵が付いてきてその侘びしさが理解できるようになったから「もーれつア太郎」も好きになったのかもしれない。ウナギ犬もいたしね。
レレレのおじさんは行方不明になった奥さんがいつ帰ってきてもいいようにいつも掃除しているし、魚か動物かわからないウナギ犬の家は半分池に浸かって、どこに属して良いか曖昧なままだ。目ん玉つながりのおまわりさんだって銃を乱射することでしか自分の言いたいことを言えない。
まんがNO.1創刊の時代は安保でゆれて高度成長期の手前くらいか、その頃の少年マガジンは「あしたのジョー」と「巨人の星」の全盛期、「天才バカボン」も左手で書いたり劇画調になったり1ページ1コマだったりとナンセンスの極みをいっていた頃。
表紙は横尾忠則だし、何故か詩の特集が連載されていたり、とても商業誌には連載できないと思われていた真崎守が連載していたり、とその時の少年マガジンの中身はとても少年誌ではなかった。
子供心にはとても刺激的で楽しみだったけどね。
その頃の雰囲気は社会状況もあるのだろうけど「あしたのジョー」や「巨人の星」のラストに象徴されるように予め破滅を予想して、しかももその負け戦に向かって積極的に突き進んでいくような空気だった。
そういった時に子供時代を過ごした人間にはそういう漫画は影響が大きかったのだ。
今みたいに「癒し、癒し」と言う時代に育つ子供達はどうなっていくんだろう。
そういう破滅に向かうような空気の中でも赤塚不二夫の漫画はどんなにムチャクチャやっていても何故かなごんだ。
たぶん根本的に優しい人なんだろう。足立正夫がパレスチナにいく費用を出した、というのも思想的なことではなく単にゆるいくらい人に優しいからだったようにも思える。
まんがNO.1復刻版に娘さんの赤塚りえ子さんの後書きがある。
その一部、赤塚不二夫はアウトサイダーではない、そういう右か左か地下か地上かといったベクトルを超越しまった、という意味合いの文章がある。(ちなみに締めの言葉は、-父は三ツ矢サイダーなのだ-)
ベクトルを超越したというよりベクトルもわからないくらいいろんなものを飲み込むような好い加減なくらいの大きさを持っていたように思える。
「これでいいのだ。」という言葉は全てを表してるかもね。
※レレレのおじさんのことですが、今ネットで見たら、妻は他界、となっていた。ほうきで掃くのも25人いた子供を早く学校に追い出すためのクセが抜けない、となっている。
行方不明の妻を待つために掃除する、といったエピソードも見たような気がするけど間違いかも。


ア太郎といっしょに八百屋を切り盛りしていたのは「チビ太」じゃなくて「でこっ八」だよ、ケケッ!