マツ・グスタフソンと音楽とダンスの関係

初対面のマツ、なんとなく巨漢をイメージしていたけど、締まった体のスマートな人だった。
なぜ巨漢をイメージしていたかというと、


やっぱりペーター・ブロッツマンを思い出してしまうからだろう。

マツ・グスタフソンというと、全盛期の(と言わざるを得ないのが寂しいけど)ブロッツマンにも勝るとも劣らないパワー・プレイをつい思い出すからだ。

でもブロッツマンとマツの大きな違いはブロッツマンがジャズを基本スタンスにしているのに比べ、マツはジャズも基本スタンスの一部、という点が大きな違いだと思う。

大友さんの日記でマツが自分たちの音楽を「反原理主義−Anti-Fundamentalism」と言ったと紹介されているけど、決してある原理に陥らないスタンスの取り方が、マツの活動の面白さだと思う。

マツのCDでは(持っていないのでタイトルわからず)モノクロの少年の写真がジャケットになった、ジム・オルーク・プロデュースのソロが一番おもしろかった。
深いリヴァーブ、というよりももはやお風呂場エコーや洞窟エコーのような音処理をされた「ブヴィッ!」とか「ブバッ」とかの極々短いフレーズのバリトン・ソックス・ソロ。

最初にそれを聞いたときにはあまりのすごさにぶっ飛んだ。マツ・グスタフソンの名前もそれで初めて知った。
マツの持つ魅力を最大限生かすのにあの音処理を選んだジムは偉い。ジムのプロデュースしたモノの中でもベストの一枚だと思う。

これから書くことは音楽とダンスのセッションにのみ関することかもしれないが。

ロッタさんのダンスは多分良かったんでしょうね。素人ながら良く鍛えられた肉体と訓練された動きであることはよ〜くわかった。

けども音楽と視覚に訴えるダンスとはなかなか相容れないモノではないかとも思う。
音がダンスのバックになったり、ダンスが音の説明になったり、主従の関係にどっちにしても寄ってしまうのではないか?

another silenceでもyoshimiちゃんの音にロッタさんの動きが反応したように思えるところが沢山あったように思う。
音を聴く(音が伝わる)時間は観客もダンサーも同じなのに、ダンサーは音を聴いてから動きを決めるわけだから、観客の音を聴いた瞬間とその動きの間にはコンマ0.何秒かのタイム・ラグがどうしても生じる。それがうざったい。

また音の印象を動きで表現することは音の受け取り方を強要することにもなりかねない。それほど視覚は強烈だから。

ダンスの人はどうしても音楽をダンスのためのモノと位置づけるから、音楽を観客が自由に受け取ることを無意識に拒否していることが多いのではないかな。

しかもダンス自体、それが優れていればいるほど、人間の身体の限界を思い知らされる。

その限界を逆手に取ったのが暗黒舞踏なんかの舞踏なんだろうけど、舞踏の人達は「俺は俺は」の世界の人が多いから、主でもない従でもない音とダンスの関係などは想像もできていないように思う。

唯一の例外は田中眠だったと思う。楽器のインプロの共演と同じ地平で踊っていた唯一の人ではないかな。その出来が良いかどうかは別として。

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