道具としての音楽

 大友さんや江崎くん、アリ君達と知的障害者達との公演には行けなかったけど、そのことについて。

 最初は行く気にはならなかったけど、大友さんのJAMJAM日記を読むうちに見に行こうと思ったが、もう既に予定が入っていて行けなかった。

 基本的に行けなかったモノ、見たことがないモノに言及するのは違反なのだが、それでもあえて書きたいことがある。


 西部講堂という、なにかと社会的運動と関係づけようとする人達が多い特殊な場所に長くいたせいか、音楽が道具として使われることに激しく抵抗感があった。

 音楽を何かの賑やかしとして捉えることの出来ない人達の貧困な想像力と自分なりに長い間抵抗してきたと思ってもいる。

 音楽が癒し云々と繋げられることも同じだ。

 だから音楽療法ということがどういうものかは具体的には全く知らないにも関わらず、音楽を治療の道具としてしか捉えることの出来ない不幸さと、その不幸な音楽につき合わされる「知的障害者」の不幸さ、という図式が頭に浮かび、どういうものか積極的に知ろうとも思わなかった。

 なので大友さんが知的障害者とのワークショップを引き受けたと聞いたときには、口には出さなかったけども「えー、なんで?」と思ったものだ。
 おまけに森本アリくんや江崎君等のとても自覚的なミュージシャンも沢山関わっていると聞いた。

 えー、なにをしようとしてるんだろう?とは思ったけども見に行こうとは思わなかった。

 なぜかというと、過去に知的障害者がメンバーにいるということを売りにしたバンドがあったからだ。
 そのバンドは知的障害者は純粋な感性を持っているというひどい差別感に裏付けられた認識を売りにしていたし、多くの有名なミュージシャンも共演していたと思う。
 
 でもそれはあくまで「あいつらはおもしろいんだよ」と言う言葉に代表されるように自分たちは「健常者」で相手は「知的障害者」であるという囲い込みを最後まで崩すことのないモノだったと思う。

 個人と個人の突きつけ合いから出てくるようなものではなかった。最初から壁が設定されているようなものだ。
 確かに壁はあるだろう。でも「知的障害者」とひとくくりに囲い込むより各個人としての壁を意識することはやれないのだろうか?
 これはそのバンドに関わったミュージシャンに対する疑問だ。

 だから大友さん達が「療法」なんてものに関わるのは傲慢なことではないかと思ったものだ。

 でも大友さんのJAMJAM日記でのワークショップでの記述を読むとそういう考えが間違っていたことがわかった。
 結果としてコンサートを目標としたワークショップになった、ということがものすごく説得力があった。
 これは前述のバンドとは違う。関わった人間全てで公演を行うことを目標に一緒に音楽を作ろうということだ。「知的障害者」の「純粋さ(?)」を利用しようとするモノではない。

 すごく真っ当なことだと思う。

 「道具として音楽」、音楽が道具であるかどうか、多分そう区別すること自体が既に間違っていたのだろう。音楽はどういう形であれ人と人が向き合うことに有効な力を与えるモノであればいい。

 そう思ったのは今回のワークショップの大友さんの日記だけではなく、古い友人の日記にあったディ・ケア・センターでの慰問の話がきっかけだ。

 認知症のお年寄りに昔の古い唄をピアノをひいて歌ってあげる。ほとんど記憶もおぼろげなお年寄り達が声を揃えて歌う。
 そういう話を読むと、音楽が道具であるかどうかなどはどうでも良いことではないかと思えてきたのである。

 「知的障害者」に関しても「音楽療法」に関しても全く知識がありません。
 なのでこの項に関しては、間違いだらけの認識に基づいて書いているかもしれませんし、ある方にはとても不愉快な事を書いているかもしれません。
 その場合は御手数ですが御指摘いただければ、と思います。

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