ONJOで吉祥寺に行った時に
空き時間にsound cafe dzumiに寄った。
sound cafe dzumiは大友さんやdoubtmusicの沼田さんの日記にも書かれているからご存じの方もいるかもしれないけど、草月ホールを退職された御店主が、退職後に手持ちの貴重なレコード(CDではない)を良い音でいろんな人に聴かせるために作ったカフェ(でいいのかな?)
詳しいいきさつは。http://www.shigotosoken.com/citacita/ac/magazine/no25.htmlにあります。
吉祥寺に着いて、以前スタパの近くにあったトンカツ屋に行きたくて移転先を探していったら、カツが出たところで「お客さん、ご飯炊き忘れたから、もう一枚カツあげるし待ってて」と言われる。
「この年でトンカツ2枚はきつい」と返答したけど結局2枚のカツ(しかも2枚目はサービスということで特大)を食って、その上「なんだ、食えるじゃねえかよ」とわけのわからない逆ギレされて。
よくわけのわからんサービスのおかげで気持ち悪くなりながら、sound cafe dzumiへ。
行ってみるとお客さんは誰もいず、店主泉さんのお話を伺うことになった。
営業的には大変なことは想像していたが、実態はそれ以上でかなり苦戦されている模様。
しかし一番印象に残った話は、たとえば大友さんや沼田さんのブログで書かれるとその時にはそこそこ若い人たちが沢山来るけど、一回来たらもう二度と来ないという話。
今の人たちは情報が欲しいだけで、その情報を手に入れた時点で満足してしまうのではないか、という話。
これは納得したなー。
来日ミュージシャンでも初来日の時はど〜んと来るけど2回目3回目は出来如何に関わらずどんどん動員が少なくなる。
とりあえず話題になっているから押さえておこう、とりあえず見たからもうそれでいいや、そんな感じ。
だからちゃんと見てたり聴いてるかとおもえばそうじゃないし。
CDやレコードだって情報だけど、少なくとも世界が広がる奥行きを持っていた。単なる情報としてしか物をとらえられないと世界も広がらない。
そうこうしているうちに他のお客さんも来て(そのうちのお一人は仙台で行われた大友さんのwithout records展のスタッフの方で、通販でもCDを買っていただいていた方なので恐縮した)いろいろ貴重なレコードを聴かせていただきました。
どういうきっかけかコレット・マニーの話になり、これもまた貴重なコレット・マニーのレコードを聴かせていただき有り難かった。
しかし音が良かった。すごいいい音。もっといろいろ聴かせてもらいたかったけど時間もなかったので、1時間強で退店した。
今度東京に行ったらもう一度寄ろう。
しかし30年ほど前はこういうお店が沢山どこにもあったのだ。
そういうお店で知った新しい音楽も沢山あったし、ラジオや雑誌では手に入らない情報も手に入れることが出来た。そうやって手に入れた情報をきっかけに次の新しい世界に向かうことが出来た。
情報が情報だけでとどまることはなかったんだけどなー。今の方が簡単に欲しい情報は手に入るのに手に入っただけでそこに留まってしまうのは何故だろう?


どもです。「情報」の意味合いが30年前くらいと大分異なって来ているんじゃないんですかね。私もしみじみ思いますが、いまの「情報」と30年前の「情報」では各々の人生への作用の仕方が全く異なっている気がします。単にトシとっただけなのかなー。
情報の「ありがたみ」は薄れてしまったようですねー。別に「ありがたく頂戴せよ」とは申しませんが。
情報は海の塩のように在るべきですが、少なくとも、海まで行って精製してこそ美味しく頂けるわけで、部屋から手を伸ばして手に入るところに置いておこうとは思いませんね。
これも、美味しく召し上がって頂く為の、自分なりの工夫です。
ぬまたさん、岸野さん、こんにちは。
情報もそうだけど「知る」ということの意味合いも違ってきてますよね。
スピードは速くなったけど深化の具合は浅い、といったように。
情けに報いると書いて情報。最初はそういうことだったと思います。
どうも、純ちゃん。
そうか情けに報いるか、そうすると情報の意味が全然違うよね。
報いるところが全然ないもんね、今は。