続き
で、北九州ビエンナーレの2日目。
会場は変わって古いビルの中。通常はビエンナーレの展示が行われている場所を一時的に撤収してライヴ会場にしてあった。
前日の特殊な音環境とは違って普通に良い会場だったように思います。
前日に展示(映像作品)も見たのだけど残念なことに心を引かれるものはなかった。
ディクソン・ディーの演奏時に一緒に上映された映像のほうがずっとおもしろかった。
今回わざわざ門司まできた理由の一つ、カヒミ・カリィ+I.S.O.、これが一体どうなるのか?カヒミさんがI.S.O.に合わせてやるのか?もしくはカヒミさんの曲をI.S.O.でやるのか?もしくは全く新しい4人の演奏スタイルになるのか?と興味があった。
結果はカヒミさんのバックをI.S.O.が努めるといった形でした。
これはこれで貴重で尚かつおもしろくはあったのだけど、もっと次の新しい展開を期待していたので若干拍子抜けした思い。
でもこのもどかしい気持ちは次のセッションで氷塊した。
しかしながらカヒミさんの声や曲が相当の強度を持っていることを再認識した。I.S.O.がバックであっても良い意味でも悪い意味でも世界は変わらなかったからだ。
やっぱりカヒミさんがタフなミュージシャンだと思う。その印象は次のセッションでカヒミさんがリーディングのスピードを微妙に変えた時に更に強くなった。声の持っている威力を充分に認知してそれをどう使うべきかを熟知している タフさ。
次の出演者全員によるセッション。ジム(オルーク)さんやカヒミさんもスペシャルで参加。
セッションとは言ってるけど安易な全員参加記念的なセッションではなく、全員の個性が際だち、あの10人が揃っていなければ出来ないと思わせる素晴らしいものでした。
ライヴでも音源でも良いけど、何かを聴くときには何らかの中心点(メロディーだったりビートだったり)をいつの間にか設定しているものだけど、今回のこの10人の演奏は聴く中心点が定まらなかった。
いろんなスピード(ビートやリズムのスピードではなく思考と行動のスピード)やいろんな意識が同時にいろんなところから現れる。
どこかに意識を集中して聴いていても他の場所で起こっていることがいつの間にか耳に入ってきて中心点を置くことが無意味だと思わされた。
様々な様相のある音が同時に「ある」ような感じ。しかもその場に一緒に「ある」ことが充分に意味を持つ音。
最近「共演」という意味を考えてしまうことが多い。それは即興ということに限らず人と人が一緒に演奏する、と言うことがどういう意味を持つのか考えてしまう。更に音楽に限らず人と人が一緒に何かをやる、ということがどういうことかも。
今回のこの10人による演奏はそれに対する一つの回答だったような気がします。
これを聴くことが出来ただけどわざわざ門司まで行った甲斐があった。
ホテルへ向かうタクシーの中で大友さんに「おもしろかったねー。」というと「今のONJOもこんな感じだよ。」
そうですか。週末のONJOが更に楽しみになった。東京、京都と行くつもり。(さすがに名古屋は無理だけど)

