山口冨士夫さんのこと

山口冨士夫さんが亡くなった。そのニュースはプロジェクトFUKUSHIMA!での福島で知った。最初はあ〜そうか〜程度の軽いショックだったけど、後で結構重く来る。
これから書くことは個人的な昔話です。興味の無い方はとばしてください。

冨士夫さん、と失礼を承知でそう呼ばせてもらう。79年の村八分再結成ライヴではスタッフだった。ちゃんとお話したことはそう無い。

村八分を最初に知ったのは中学か高校か、同級生に借りたレコードで。あ〜、かっこいいな〜、それしかなかった。苦手なタイプのロックなのに。
西部講堂を最初に認識したのもご多分に漏れずそのレコード。中ジャケの西部講堂内部の写真に異常に興奮した。なに、この場所?みたいな感じかな?

まさかその時にはその後8年もそこに住むことになるなんて思ってもいなかったんだけど。

その後、受験で京都に来たとき西部講堂を見にいった。観光ですね。その時にザッパ西部講堂ライヴの立て看を見て「行きたい!」と思ったけど他の受験日と重なって行けるはずもなく。

ちなみにその時に親から預かったホテル代、レコード代に使い込んで京都駅で寝たんだよな。バカだ。

79年の村八分再結成ライヴには主催が知り合いのロックバーのマスターだったので、頼み込んでステージ周りのスタッフにしてもらった。

初生村八分、どきどきしながら待ったけど内容は期待はずれだった。

後日、そのマスターに礼を言おうとしてその店に行き「あれ、おもしろくなかったね〜」とか言うとマスターがしきりに目配せをする。
なんで?とおもって横を見ると冨士夫さんとチャー坊が!

話はそれるけど、年上に対してでも昔から感想は正直に言うことにしてた。でもそれを素直に受け取ってくれる年長者は少なかった。まあ、クソ生意気なガキに言われて楽しいわけはないからそれは分からないことはない。
大抵「お前はなんにも分かってない」「音楽を分かる分からんで聴くの?」のケンカになるのだけど。
それでもそのマスターも含めクソ生意気なガキの意見も黙って聞いてくれる先輩が何人かいて、いまでもそのことには本当に感謝してる。
少なくとも生意気なガキのやる気を削ぐことはなかった。自分も、だから年下の意見を頭ごなしに否定するのはやめようと思ってる。やるのは難しいけどね。

話を戻す。すでに素面でない二人に正直な感想を言う度胸はなく、それと言って挨拶して「面白かったです」ってウソを言うのもいやなんで一杯だけですぐに帰ったな、その時は。

その後、何年か後で西部講堂に住みだして、なんのイベントか忘れたが富士夫さんが出るイベントで突然楽屋に呼び出された。
取り巻きが何人もいて何故か皆こっちをにらんでる。なにを言われるのか凄い緊張してたけど、冨士夫さん、1枚の紙を出して「(西部講堂に居る)石橋君なら分かってくれると思うけどこれに署名してくんない?」

それがなんの署名だったか記憶もあやふやなので書かないけど、相手の目をずっとしっかり見てる富士夫さんの目がキラキラしてて凄い綺麗だったのをよく覚えてる。
それを人に言うと「瞳孔が開いてただけじゃない?」なんて言われるけどその時の富士夫さんは明らかに素面だった。

後で気がついたけど誰か他の人間に「冨士夫さんが頼んでるから」と言付けることもできたはずだし、会ったときも署名を集めるように頼むこともできたはず。
そうじゃなくてずっと人の目を見て、ちゃんと内容を説明して一人の署名を頼んでた。

薬やケンカに関する噂はそれこそゲップが出るくらい聞いてたけど、すごくちゃんとした人なんだなとちょっとうれしかったのを覚えてる。

その後ソロやユニットを何度か聴いたけど、良いときは腰が抜けるくらい素晴らしい、でもどうしようもない時も多くて、それをみるのもいやでここ十数年は全く見にいかなかった。

死につながる経緯はまだはっきり分からないけど、善意の人である冨士夫さんが誤解によって突き飛ばされたことが原因なのは間違いないみたい。

ケンカや薬が原因でないのが自分にとっては唯一の救い。

ロックのかっこいいもダメなところもどっちも含んだ一般的なイメージを全て音も含めて体現してるような人だった。

自分にとっては子供の頃のアイドルみたいなもんだった。

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