音楽とコミュニティ

 今日のDOMMUNEは見ることが出来なかった。だから参考になることがあったのかもしれないけど、見なかったことを前提で。
 非常階段の巧みさ(正直に言うと「狡猾」という方が合ってるのだがそれは失礼なので)を最近ずっと考えていた。
 それは多分もしかしたら今の音楽状況を大きく変える可能性もある、かもとも思ってる。大げさだけど。

 ずっと考えてるけど音楽はあるコミュニティを確保できれば勝ちなのではないか。勝ち負けで言えば。
 孤高の存在、などと言ってもその「孤高」にあこがれる小さく狭いとはいえ、あるコミュニティが存在してるわけだし。
 
 ただそのコミュニティを意識して活動してるか否かでは大きな違いがあるが。

 多分、数十年前まで、ネットが普及する以前ではそのコミュニティは「一般大衆」だったんだろう。
 もしその「大衆」に受け入れられなかったものでも、当然好きだという人は現れるわけでそういう一部の人間でも極々小さいコミュニティは生まれてきたわけだろうし、そういう意味では今も変わらないかも知れない。

 でも昔は地方地方で散らばって存在さえ知らなかった同じ指向のコミュニティが、今は簡単にお互いの存在を知り大きくなることが出来る。それはネットが普及したからと言う単純な理由だけじゃないのかもしれないが。

 だからそのコミュニティが独自に深化してって独自の世界を作ってるんだよな。そして違う世界は無視、いや意図的に無視してるんじゃなくて意識する必要すらない、と思ってるんじゃないかと言うときもある。

 ある音楽文化なんて完全にそうだとしか思えない。だいたいファッション(お客さんも含め)でどんな音楽か想像がつくって本当は気持ち悪い事じゃないのかな。それはロックだけじゃないけどね。ある地域に依存したコミュニティ(京都で言えば左京区限定って言いたいミュージシャンだっている)だってあるし、ノイズやインプロだって同じような感じだな。

 あるコミュニティに依存してそれを深化して独自の文化を創ることは否定しない。それで生まれた素晴らしいものだって沢山あるだろう。音楽ではないがオタク文化なんてそうなんじゃないだろうか?あまり詳しくないのでもし違っていたら申し訳ないが。

 ただやはりそれでは限界があるような気がずっとしてる。コミュニティ内だけの深化で他のコミュニティにまで到達できうるような力のあるものはなかなか生まれないのではないか。と思う。
 力があっても壁を越えて声を届けるのは壁が高くなって分だけ実は昔よりも難しくなってるじゃないか?とも。

 自分の持っているコミュニティにだけしか視線を送っていない音楽はやはり力がないし、かといって壁を越える力を持ってる人でも、こう小さいコミュニティが濫立し、また壁も高い状況ではそれを越えて声を届かせるのは容易じゃないよな、と考えてた。

 そんな時に非常階段である。

 言うまでもなく非常階段はキング・オブ・ノイズ(自称でもあるが)、ノイズ・コミュニティでは別格の存在。

 それがjazz非常階段、bis階段、初音階段、と簡単に壁を越えて活動してる。

 旧知の仲だから広重君や美川君の音楽指向の広さはよく知っている。だからその組み合わせには個人的に意外性はなかった、と言ってもいい。

 何とか階段は昔からずっと継続してるし。そういえば非常階段の活躍フィールドは昔から最初から壁を越えていたのだ、ということに気がついた。

 ノイズ発祥のバンドであるからノイズ・コミュニティを作ったのも非常階段だと言ってもいい。だが活動フィールドはハード・コア等のパンクの現場もロックのところも多かった。

 あるコミュニティを形成し音楽を深化させながらも自分たちの音楽指向のあった方向にも食指をずっと伸ばしていたのだ。

 どこが根っこというわけでもない。コミュニティを作っておきながらそれを根っこにもしていない。自らの音楽指向の広さ全てが根っこになってる。しかも、これが一番狡猾(失礼)だと思うのだがそのコミュニティを一切否定していないのだ。やはりどこまでいっても「ノイズ」バンドなのだ。

 これも多分だけど、あるコミュニティに依存するときは他者の否定が前提にあるような気がしてる。

 非常階段は、どうも全肯定にしか思えない。否定が見えないんだよな。

 なんか、どうもそこにいろんなヒントがあるような気がしてならないのだけど、どうでしょうかね?

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