コーヒーショップ・ネットワーク

 以前にも紹介したことがありますがこれは故トム・コラ氏の造語。

 スケルトン・クルーやサード・パースン、the EX、カーリュー等々で精力的に活動し98年に亡くなったチェロ奏者トム・コラ(あっF.M.N.でもトムさんと大熊亘くんや篠田昌已くん等がメンバーのピヂン・コンボ、リリースしてます)、彼は実はこれも以前書いた山谷の映画「やられたらやりかえせ」のニューヨーク上映実行委の一人だった。

 実行委の一人というよりほぼ中心になって動いてくれてたと思う。

 そのトムさんが日本の上映実行委が、(また映画だけでなくライヴ・ツァーのブッキングも)小さい飲み屋や喫茶店に集う人たちの地道なつながりが日本全国にネットワークを作っていることに驚き、他にそんな国はないと思う、独特のネットワークだ、と名付けたのがコーヒーショップ・ネットワークという名前だ。

 もちろんそう言うネットワークは実は脆弱で、個々の経済的な事情や気持ちの問題ですぐに雲散霧消の状態になってしまうのが常だったが、それでもいつも何かと新しい人たちがすぐ出てきて、何となくいつもネットワークが出来ていた。

 ネットが普及する前、FAXなんて高価で手が出ない時代の話、とは言ってもほんの20年くらい前の話だ。

 この間のjamjamaラジオでの大友さんとピカチュウの話を聞いてその頃のことを思い出していた。

 そんな脆弱でいつ無くなるか分からないネットワークだったがそれでもなんとなくお互いの顔が見えていたような気がしていたのが不思議。

 電話か手紙、もしくは委託でのFAX、そんなふうな連絡で、顔も見たことも直接話したこともない人たちもたくさんいたのに何故か信頼関係が出来てた。
 
 ネットもない時代の海外とのネットワーク作りに関しては、80年代から90年代に特にハードコアのシーンで頻繁且つ緻密になされていたのを目の当たりにしていた。

 お互いの音源交換、ツァー・ブッキングの相互補助。手紙だけでここまで出来るモノかと驚いた。90年代の世界中のハードコア・シーンはそんな地道なネットワーク作りが花開いたものだったと思う。

 今のネット環境が整備された時代のネットワーク作りってどういうもんだろう?

 ちょっと以前とは違う感じがしてる。顔が見えないのは同じ、でも関係の深さが違うような気がする。何かをやって終わってその後連絡をしないのも同じだけど終わった後の互いの関係が違うような気がする。

 つきあった&一緒に何かやったというのと、こなしました、っていう違いかな?

 今の時代、ネットワークを作るということ自体が無意味かもしれない。が、やはり本当に顔が見えなくても「顔」が見えるような感じでやれる方が、そのあともし一緒にやることが無くなっても意味が違ってくるような気がする。

 これもおじさん世代の愚痴かな?

 

“コーヒーショップ・ネットワーク” への3件の返信

  1. コーヒーショップ・ネットワークというフレーズを眼にすると、保険の発祥といわれた英ロイズのことを想起します。だいぶ違う話なのは分かっていますが、コーヒーショップで人と人とのつながりが、保険という一種の金融商品に結実していくというのが興味深い点なのですが。それはともかく、西洋のコーヒーショップ文化は面白いと思いますね。でも、それはどらっぐすとうぁでもマントヒヒでも同じなのではないでしょうか。

  2. ロイズ、あー確かにそうですね。
    どらっぐすとうぁやマントヒヒもそうだったか。
    今はどうなんですかね。アバンギルドやベアーズとかまだそう言うところがあるような気が済ますが。

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